倪 彬(ニイ ビン) 中国出身 │ 41歳 │ 男性 │ 在日18年目
私立大学 経済学部 准教授として活躍されている、倪 彬(ニイ ビン)さん。留学生として来日後、日本企業の海外営業として順調にキャリアを積んでいたものの、再度、大学院に行くことを決意。人生の舵を大きく切り、自らの意思で未来を変え、掴んだキャリアについてお聞きしました。
私は、中国の上海出身で、幼い頃はおとなしい子だったようです。 絵画教室に通っていたのですが、あまり好きになれず、何回か通ってやめてしまいました。学校の勉強は、いつも100点取ることを目標にしていました。100点を取るとノートがもらえる制度がありましたので、それを目標に頑張っていました。100点取ったらノートが5冊もらえる、期末試験だったら10冊 もらえるという仕組みがあったと記憶しています。日本のアニメやドラマ見たりはしていましたが、その時は、純粋にストーリーを楽しんでおり、日本のアニメだからといって、特別、日本に何か感情を持つことはありませんでした。
日本に興味をもったのは、叔母が大阪にある大学で先生をやっていたからです。叔母が日本にいることもあり、いずれ日本に留学をしようと考えていました。欧米への留学も考えましたが、ビザの基準が厳しかったのと、日本には叔母がいる安心感があり、日本に留学することに決めました。また、父も80年代に日本に留学した経験があり、日本の話をよく聞いていたので、日本に留学することが楽しみでした。
最初は研究生として入学したのですが、途中、頼りにしていた叔母がアメリカで仕事をすることが決まり渡米してしまいました。不安だった日本語は、日常会話ぐらいしかできませんでしたし、日本の生活にも慣れていなかったので、はじめはとても苦労をしました。
学生時代は、様々なアルバイトをしました。焼肉屋や懐石料理屋さんでのアルバイト、クレジットカードの入会キャンペーンスタッフ、英語と中国語の通訳、家庭教師、京都の学会の運営スタッフなどです。京都の学会や通訳の仕事は特に面白い仕事でした。アルバイトで色々な業界を垣間見て、多様な方々との接点をもつことができたことは、学びが多かったです。また、大学では韓国やタンザニアからの留学生もおり、視野を広げることができました。
就職活動は、日本人の大学生と同じように会社説明会に参加して面接を受けました。ひたすら、説明会の参加→面接の繰り返しです。就職については、中国に戻ることは考えておらず、もう少し日本に滞在したく、日本で就職をしようと思いました。
就職先を選ぶ基準は、①海外に関わる仕事 ②自分の語学力や学んできたことが活かせるような仕事、の2つで、業界は特に絞らずに就職活動をしました。おそらく、100社ぐらいは応募をしたのではないかと思います。大手・上場企業もあれば 中小企業もあり、可能性がありそうなところは、すべて応募をしました。
当時、日本式の履歴書の作成方法や面接対策など、アドバイスをもらえるような人はいませんでした。クラスメイトの留学生も、私以外は母国に帰る選択をしていましたので、就職活動の体験談を聞ける相手もいませんでした。したがって、自分で対策を考え、実践するしかありませんでした。面接は何回かやっていくうちに、質問される内容のパターンが見えてきますので、自分でどう受け答えをすれば効果的かを模索しながら、その都度、改善をしていきました。 結果、金融業界とメーカーの2社で内定をもらいましたが、大学の指導教官とも相談し、メーカーでの内定を受けることにしました。
就職先では、中国に子会社の生産工場がありましたので、その子会社の管理を担当しました。中国と日本を出張でよく行き来していましたので、母国である中国と日本の架け橋になれた気がして嬉しかったです。社風は上下関係が厳しく、活発に意見交換ができる環境ではなかったので、あまり馴染めませんでした。
しばらくして、「もう少し規模の大きい会社で挑戦してみたい」と思うようになり、人材紹介エージェントを使って転職をしました。転職した会社は、衛生用品製造機のシェアNo1の企業で、中国はもちろん世界中に拠点がありました。この会社では、中国ではなく、南米と東南アジアの海外営業を担当しました。 南米はスペイン語とポルトガル語圏ですので、少しでも現地の言葉で会話ができるように勉強をしました。仕事を通じて、様々な国の文化に触れ合えるこの仕事はとても面白いと思いましたし、特にブラジルは、知らない人でもみんな笑顔で挨拶をしてくれ、陽気で前向きな人が多く、大好きな国でした。
南米や東南アジアのクライアントとのコミュニケーションは、日本と文化が違っており、私はこちらの方が肌に合いました。日本のお客様は、組織の性質上、様々な承認が必要なため、どうしても細かくなりがちで、上下関係がありますが、南米や東南アジアのお客様は、好き嫌いがはっきりしており、要望もストレートに言われるので、大変わかりやすく好感が持てました。
衛生用品の製造機の営業は、注文を受けて出荷するだけではなく、現地に機械が届いてから、実際にうまく稼働するかどうか、出張で現地に行き、機械の試運転をしながらお客様のサポートをします。1度に3〜4ヶ月間ほど現地に滞在をしますので、現地で生活をするような体験もできました。私は、海外の食べ物や生活には、すぐに慣れてしまう方でしたので、この仕事は向いていたと思います。
楽しい仕事生活を送っていたのですが、将来、自分の未来像となるであろう上司を見ていると、ふと「自分はこのままで良いのか」と、今後のキャリアに疑問を感じました。そして、仮にまた転職をして会社を変えたとしても、将来への疑問や、思い描いている未来とのギャップは埋められないだろう、と気が付き「これは、徹底的にルートを変えなくては!」「人生を変えるのは教育だ!」と思い、再度、大学院に行くことを決意しました。
大学院では、経済学を専攻しました。経営学(MBA)を学んだこともありましたが、ストーリーがいくらでもつくれるような印象があった為、もう少し客観的な数字とエビデンスに基づいて、組織の意思決定や提案をするような研究していきたい、と思い経済学にしました。
大学院での研究中は、国連アジア太平洋経済社会委員会(UNESCAP) の研究助手をしたり、アメリカの大学の客員研究員、独立行政法人の特別研究員をするなど様々な経験をしました。そして、2016年に博士後期課程を修了後、研究に専念し、現在は、 私立大学の準教授として、教育活動をしながら研究を続けています。
人生の舵を大きく切り、大学院に進学をしましたが、結果として正解だったと思います。今では、自分の知識や経験を活かしながら、自分の裁量でやりたいことが自由にできるこの仕事は、理想的でとてもやりがいを感じています。
今後は学術分野だけではなく、企業と手を組み、産学連携でプロジェクトを推進するなど、社会貢献ができればと思っています。
昔、ある学会の先生に言われ、奮い立った言葉があります。それは「志を高く持て」です。いま、日本で頑張っている留学生やビジネスマンの方にも同じ言葉を送ります。目標を高く設定し、自分を信じ、その目標に邁進して欲しいと思います。
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