レスキャナ ジュウィタ ウォルダニ インドネシア出身 │ 29歳 │ 女性 │ 在日6年目
高校の授業をきっかけに日本語の勉強にのめり込んでいったというレスキャナさん。持ち前の探究心と向上心が評価され、日本企業にて接客業務から社内のマネジメント業務への転身も叶えました。新たな道を突き進むレスキャナさんに、これまでのキャリアと今後への意気込みを聞きました。
【経歴】
・2014年 (インドネシア)国立バジャジャラン大学 日本語学部 卒業
・2017年 (日本)日本語学校 卒業
・2017年 (日本)セールスプロモーション支援企業 入社
・2021年 (日本)人材派遣会社 入社
私が日本語に興味を持ったのは高校生のとき。インドネシアの高校では英語のほかに外国語の授業があり、学校によって日本語、ドイツ語、中国語、フランス語などを学びます。私が進学したジャカルタの高校では、たまたま日本語が採用されていました。
小さい頃、私はディスレクシアという学習障害のために小学校4年生まで読み書きができませんでした。教科書を読もうとすると字が歪んだり逆さまに見えたりして…。でも当時のIQテストでは私の興味が「言語」にあると判定されて不思議な気持ちでした。必死に勉強して、小学校6年生までになんとか母国語であるインドネシア語と英語を学びました。
高校の外国語の授業では素敵な先生に巡り会えたこともあり、日本語の面白さにのめり込んでいきました。インドネシア語と英語はどちらもローマ字を使いますが、日本語ではひらがな、カタカナ、漢字と新たに3種類の文字を覚える必要があります。複雑で難しいと言う外国人も多いですが、私にはこれが楽しくて仕方がなかったです。
とくに興味を持った文字は漢字でした。私のなかで漢字は絵のようなイメージ。例えば「花」という漢字は、花弁があってその下に茎、葉と、そのまま花の絵のように見えます。もちろん難しさはありますし今も学びの途中ですが、もっと知りたいという好奇心が勝りますね。
「大学で本格的に日本語を学びたい」と相談したとき、両親はアルファベットすら読めなかった子が…と驚いていました。実は小学校時代に読み書きを克服できた要因の一つは、父がハリーポッターの英語版小説を読むよう勧めてくれたからでした。インドネシア語がままならないだけでなく、そもそも字が読めないのにと思いましたが、ページをめくってみたら英語の方が分かりやすく思えました。三語ずつ読んでは辞書を引いてを繰り返し、分厚い一冊をなんとか読み終えた頃には読み書きが好きになっていました。こうして父が教えてくれた言語の面白さを、大学でも突き詰めてみたかったんです。
大学では日本語の授業を受けながら、日本の学生との交流を楽しみました。私の通う大学が早稲田大学と国際交流制度でつながっていたため、インドネシア語を学ぶ学生と学内で話せる機会が多くあったんです。生の日本語に触れられたことは収穫でしたね。
4年間の大学生活を経て無事卒業を迎えたものの、自分のなかではまだまだ日本語を学びきれていないと感じていました。日本の学生と交流する機会があったとはいえ、会話のほとんどはインドネシア語と英語。はい、いいえで答えられる簡単な受け答えや趣味は?何歳ですか?といったテンプレート的な会話しか習得できなかったことが悔しかったです。そこで父に留学をしたいと伝え、了承を得ました。留学までの半年間は地元に戻り、日本語講師として簡単な日本語を教えていました。
その年の10月に初めて日本の地に降り立ちました。インドネシアはあたたかかったので薄手のスーツで来てしまい「寒い!」と思いましたが、日本に来たことを実感して胸が弾みました。その後1年半の間、インドネシア人が少ないと聞いていた岐阜県の日本語学校で学びました。
学校に通いながら、1年間は先生から紹介されたお弁当工場でアルバイトをしました。日本語でのコミュニケーションよりも大変だったのは、自宅から工場まで自転車で片道1時間の道のり。1時間かけて工場に向かって、夕方から朝3時まで働いたらまた1時間かけて自宅に戻り、8時からの授業に出席する毎日です。台風や雪の日は泣きたくなりましたが、一緒に働いている人たちが優しかったのでなんとか乗り越えられました。一緒にアルバイトしていた4人の同級生のうち、私だけが大学で日本語を学んでいたため、現場の方からは「みんなに伝えて」と、いつの間にか通訳のような立ち位置に。皆さん妹のようにかわいがってくれました。
より積極的に日本語でのコミュニケーションを学びたいと思い、残りの半年間は自宅近くのコンビニ二店舗を掛け持ちでアルバイトしました。どちらも近い距離にあったので、一日のうちに昼のシフトと夜のシフトではしごすることも多かったです。するとお客さんから「あれ?お姉さん、お昼はあっちのコンビニにいたよね?」なんて声をかけてもらうことも。コンビニのマニュアルは覚えることが多く大変でしたが、日本語力の向上に役立ちました。
卒業を控えた頃、面談で先生から「帰国か進学、どちらにする?」と尋ねられました。でもまだインドネシアには帰りたくなかったし、大学院に行く自信もなかったので「日本で就職してみたい」と答えました。当時の進路は帰国か進学の二択しかなかったためとても驚かれましたが、先生は「じゃあ就職フェアに行ってみようか」と提案してくれました。
先生が運転する車で一緒に東京の就職フェアに行き、企業ブースを回りました。初めて就職することになる会社もフェアに参加していて、先輩社員から話を聞くことができました。外国人雇用の実績がある企業を何社か受けて、その中でもオフィスが綺麗で採用担当者の雰囲気がよかったこの会社に決めました。
面接では、来日の経緯や志望動機などを中心に質問されることが多かったです。今後の目標や将来の夢なども聞かれました。回答はある程度準備していましたが、想定外のことを尋ねられることもあり、そのときはすべて正直に話すことを心がけました。親身になって面接練習や書類作成を教えてくれた先生には感謝しています。時間などの約束事にとても厳しい方でしたが、今では日本の社会に順応できるよう育ててくれたのだと分かります。
念願のの日本企業への就職を果たしたものの、入社後は苦労が絶えない日々でした。当時は外国人受け入れの仕組みが整っておらず、なかなか配属先が決定しなかったんです。2ヶ月間日本語の勉強をしながら辞令を待ち、ようやく決まったのは中部エリアの携帯電話販売の店舗でした。
やっとと仕事ができると意気込んで出勤しましたが、最初は周囲もなにを任せていいか分からない様子で、お願いされるのは清掃作業ばかり。さらに上長がクライアントから「どうしてこんな人を派遣したの?」「外国人はいらない」などと言われているのを聞き、本当にここにいていいのだろうかと情けない気持ちになりました。
しかし上長は「彼女なら大丈夫です。少し時間をください」と守ってくれました。そして私に、二週間でマニュアルをすべてマスターするようにと言いました。そのマニュアルは接客から携帯電話にかかわる登録、操作方法などが網羅されていて、途方に暮れるようなボリュームでした。私には無理だと思う一方で、やってみないと分からないとも思い、先輩方にサポートしてもらいながらとにかく頭に叩き込みました。なんとか覚えて周囲に認めてもらえたときはとても嬉しかったです。
その後、中部エリアの様々な支店に配属となり、たくさんのスタッフ、お客さまと関わりました。接客の場ではマニュアルにないシチュエーションも多く、その都度柔軟に対応しなければなりません。日本の社会で働くことの厳しさを感じることもありましたが、同時に日本人のあたたかさに触れることもできました。お客さまの方から「どこの国から来たの?」と話しかけてくれたり、携帯を買うなら私からがいいと再び来店してくれたり。お客さまをサポートする立場でありながら、お客さまの存在にいつも助けられてきました。
店舗業務を1年ほど経験した頃、人事スタッフから「新入社員に向けてビジネスマナーを指導するマネジメント職に挑戦しませんか」と声をかけてもらいました。中部エリアでは外国人社員が私だけだったため、同じ立場の人がいないこともあって不安が大きかったです。そこで上長に気持ちをぶつけたところ「あなたは色んな店舗で経験を積んでいて日本人スタッフよりも業務スキルが高く、お客さまからの評価も高い。外国人だからなんて考えないで、もっと自信を持っていいんだよ」と言ってもらい、チャレンジする決意が固まりました。
上長の言葉を胸に、新しい部署では後輩に自信を持って教えることを心がけました。すると私を「外国人だから」「外国人なのに」と気にする人はまったくいませんでした。私に対してそんな風に思っていたのは、実は自分自身だったのかもしれません。店舗で培ったコミュニケーション能力を活かして信頼関係を構築するようにしたところ、毎月の退職率を6%から3%以下に削減することができました。
とはいえ、新しい仕事でもたくさんの壁にぶつかりました。当たり前ですが、後輩たちは私を会社の人間としてどんなことも質問してきます。人事や給与のことなど、現場でお客さま対応をしてきた私にはすぐに答えられない質問ばかりでしたが、自分の立場を意識して、責任を持って答えるようにしました。一つひとつ本社に確認して、分からないことは分かるまで尋ねて…うるさい社員と思われていたのではないかと思います。
入社して5年が過ぎた頃、日本での経験をインドネシアで活かそうと計画していましたが、コロナウイルスの影響で帰国が困難に。そんななかで、まだ日本で挑戦してみたいという気持ちが芽生えていきました。具体的には、日本にいるインドネシア人を助けたいという思いです。努力を重ねたら、日本人のお客さまや社員をサポートすることができました。今度は自分の国の人の力にもなりたいと考え、「日本在住のインドネシア人を助けられる仕事」という軸で転職活動を始めました。「NINJA」に登録したところよいご縁があり、インドネシア人の生活支援・採用に関わる仕事に転職することが決まりました。
目下の目標はインドネシア人を助けることですが、私の将来の夢はもっともっと多くの人を助けることです。自分以外の人を助け、その人たちのために生きていきたいです。でもそれにはまず、自分に与えられた仕事に責任を持ち、お金や時間の問題をクリアしなければなりません。将来多くの人のために生きられるよう、今自分にできることを一つひとつ頑張っていきます。
これを読んでいる外国人の方に伝えたいことは「みんな素晴らしい!」ということです。自分の国ではない場所で、自分の言語でない言葉を使って生きようとしていること、それだけで素晴らしいと思うんです。私は「頑張ってください」という言葉は好きではないので、皆さんには「これから楽しんでいきましょう」という言葉を贈ります。どんな仕事にも大変なことはあると思いますが、まずは楽しむことが仕事です。皆さん、それぞれの道を楽しんでください。
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